地下鉄


                                    月野 一匠


 窓の外は、暗やみです。冷たそうなコンクリートの壁が続くばかりで、
何も見えません。レールの音も、ガォーン、ガォーンと壁の内側に
こもって、なんだか悪魔の声みたいです。
「いい? おばあちゃんの家はこの電車の終点だから、安心して座って
行くのよ。着いたら、みんなといっしょに降りれば、出口のところに、
おばあちゃんが迎えに来ていてくれるからね。」
「だいじょうぶよ、お母さん。」
ドアが開いて乗るときは、あんなにワクワクしたのに――発車するときは、
ホームのお母さんに、あんなにニコニコ手を振ったはずなのに、ユリは、
初めて一人で乗った地下鉄に、少し心細くなりました。
「そうだ、お絵描きしよっと。」
 ユリは、リュックからお絵描き帳を取り出して、ひざの上にのせました。
 電車が地下鉄線を走るのは、二十分くらいのあいだです。南条駅を過ぎ
れば、あとは地上に出て、次の駅からは、郊外へ向かう私鉄の線路に乗り
入れるのです。がまんするのは南条駅まで――。あとは、おばあちゃんが
待っている広畑駅まで、ずっと窓の外の景色を楽しめるのです。
 ところが、電車は走り出すと、思った以上に揺れて、黒エンピツが
かってに変な形を描いてしまいます。線を引いても、まっすぐにはなり
ません。大好きなお人形の絵を描こうとしても、顔はどうしてもライオンの
たてがみみたいになってしまいます。
 しかたなく、ユリは、お絵描きをあきらめて、車内をながめることに
しました。
 知らないあいだに、人の数が増えていて、もう空いている席はありま
せんでした。立っている人が、いくつかのドアのところに、一人、二人
・・・・・・六人います。
(次の駅では、何人乗ってくるんだろ。)
 ユリは、きっと四人だよ、と想像しました。
 ドアが開きました。ユリは、さっと左右を見回します。
 一人、二人・・・・・・。ユリの席の近くのドアから、おばあさんが乗って
きました。腰が少し曲がっていて、明らかに、ユリのおばあちゃんよりも、
ずっとお年寄りです。
 ユリの目は、乗客の人数を数えるのをやめて、そのおばあさんの動きに
吸い寄せられました。
 おばあさんは、あたりを見回しましたが、空いている席がないので、
鉄棒につかまりました。
 ユリは、席をゆずろうかなと思いましたが、おばあさんは、向こうの
窓の方を向いています。声をかけようかと考えましたが、ななめ後ろから
大きな声を出すのは、ちょっと勇気が必要です。立って行って、とんとん
するのも――やっぱり勇気が必要です。
 前の席の人がゆずってあげないかな、と期待するのですが、ヘッドホン・
ステレオをきいているおにいさんは、知らんぷりです。そのとなりの
おばさんも、顔を上げましたが、すぐにまた雑誌に目を落としました。
 ユリは、心が少し苦しくなってきました。
 その時、
「おばあちゃん、こちらへどうぞ。」
という、女の人の声がしました。
 ユリの何人か右の方に座っていた若い女の人が、立ち上がって、自分の
席を指しました。
 おばあさんは、振り向き、前かがみの姿勢でユリの前を通って、
「すみませんねえ、ありがとう。」
といって、うれしそうに腰かけました。
(ああ、よかった。)
 ユリは、そのおねえさんの勇気ある優しさに感心しながら、ほっと
しました。
 いくつかの駅を過ぎ、電車はようやく地下鉄最後の南条駅に着きました。
 さきほど席をゆずった女の人が、にっこり、おばあさんに会釈をして
います。ここで降りるのでしょう。つり革から手をはなすと、ドアに
向かって行きました。
 その後ろ姿を目で追ったユリは、ハッとしました。その人は、左足が
不自由で、肩を揺らしながら、降りていったのです。
 おばあさんも、びっくりした様子でした。ドアが閉まりゆっくり動き
始めた車内で、おばあさんは、慎重に立ち上がると、曲がった腰で気を
つけして、
「知りませんでしたよ、許してください。本当にありがとうございました。」
と、過ぎ去るホームに向かって、深々と頭を下げました。
 電車がしだいにスピードをまし、地上に出ました。窓を開けたくなる
ような明るい景色が、ユリを待っていました。




月野一匠「地下鉄」(『文芸ひだか』第10号、1997年 掲載)

 Copyright: Isshou Tsukino
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