イワンの海
月野一匠
青く深い海の中には、何があるのでしょうか。
海面の広がりを天井にいただく深い海の中は、魚たちの世界です。
遠くから、銀色に光るかたまりが近づいてきました。回遊するいわしの群れです。
右に左にうねりながら、集団を作って泳いで来ます。
その中に、若いイワンもいました。
いわしの群れは、誰が号令をかけるでもなく、前方の気配を察知しては、集団全体がたくみに向きを変えて、左右・上下に、あるいは前後に進みます。
一匹が、たとえそれが誰であれ、行く手に障害物や危険を感じて方向を変えると、集団の全員がただちに反応して、いっせいに同じ動きをするのです。反応はすばやく、けっして仲間どうしがぶつかることはありません。
イワンも軽やかに体をひねりながら、仲間との群舞(ぐんぶ)を楽しんでいましたが、周りを見て、ふと思いました。
「せっかくこんな広い世界にいるのに、群れで固まって泳ぐなんてもったいない。ひとりで自由に泳ぐことができたら、どんなにすてきだろう。」
そう思うと、若いイワンの心は、たちまち冒険の誘惑にかられました。
もうじっとしていられません。
「ほんの少しだけさ。」
そう自分に言い聞かせると、イワンは、仲間が下へ向きを変えた拍子に、自分だけ勢いよく上へ飛び出しました。
群れから離れてみると、視界が四方八方に限りなく開けて、どちらへ進むかは自分の意志しだいです。
すぐ近くを、見知らぬ魚たちが、気ままに泳いでいます。
イワンは、すれ違う魚たちに、「こんにちは」と、親しく声をかけました。
どの魚も、イワンにちらっと視線だけ向けて、「やあ」と答えては、無関心に通り過ぎていきます。
「ああ、これが自由というものなんだ。」
イワンは、しばらくの間、初めて手に入れた自由の味を楽しんでいました。
その時、突然、周囲の様子が一変しました。
後ろから、さまざまな魚が、いっせいに自分を追い抜いて、全速力で上下左右あらゆる方向へ散っていきます。
振り返ると、鋭い鼻先を持った大きな魚が、まっすぐにこちらへ向ってきます。
「大変、カジキだ。」
イワンは、「逃げなくては」と思いましたが、恐怖に体がこわばって、いつものスピードが出ません。ほかの魚たちが、次々に自分を追いこして逃げていきます。
このままでは追いつかれてしまいます。
背後から水の揺れが伝わって、カジキがすぐそこまで接近してきたことが、わかりました。
「助けてー」
と、叫んだ時、カジキがものすごいスピードで、イワンの脇を通り過ぎて、先に逃げて行った魚をつかまえました。
カジキが狙っていたのは、別の魚だったのです。カジキは、その魚に狙いを定めると、周りの魚には目もくれずに、追いかけ続けて仕留めたのです。
身代わりになってくれた魚には気の毒だったけれど、イワンは助かりました。
でも、こわい光景を見てしまいました。体がまだふるえています。
イワンは自分を励ましました。
「とにかく助かったんだから、落ち着くんだ。」
気を取り直して周りを見ると、あれほどいたほかの魚たちが、どこにも見当たりません。
「そうだ、カジキはまだ狩りを続けているのかもしれない。」
安心するのは早すぎました。
誰もいなくなった海の中で、イワンは、言いようのない孤独感におそわれました。
自分を取り囲んでいるのは、深く青い静寂だけです。
「これが自由というものなのか。」
イワンはふとそう感じました。
その時、はるか深い海底の方に、巨大な黒い影が見えました。
カジキよりも、はるかに大きな生き物です。
「大変、あんなでかいやつに狙われたら、今度こそおしまいだ。」
イワンは、自分の無防備を感じました。
急いで身をひるがえすと、イワンは黒い影から遠ざかろうと、全速力で泳ぎ始めました。
「まさか、ぼくを狙っているんじゃないだろうな。」
いやな予感がしました。
狙いを定められたら、カジキに食べられてしまったさっきの魚と同じ運命になることは明らかです。
巨大な生き物は、後ろからまだ自分を追って来る気配です。
うかつでした。ほかの魚たちは、カジキの危険から逃れたあと、早くも次の危険に備えていたのです。自分だけが、一瞬の恐怖から逃れたことにホッとして、身を隠すことも忘れ、この領域にとどまっていたのでした。
心配は的中しました。正体不明の敵は、なおも自分を追跡してきます。
イワンは、自分がまちがいなく巨大な敵の格好の獲物(えもの)になってしまったことを知りました。
こうなったら、何としても逃げるしかありません。イワンは、力をふりしぼって、必死に泳ぎました。
逃げながら、隠れるところはないかと探しましたが、周囲は、どこまでも続く果てしない水の世界です。
前方の魚たちが、イワンの後ろから迫ってくる巨大な生き物から逃れようと、急いで散っていきます。
しかし、狙われた獲物がイワンである以上、ほかの魚たちは、ひとまず安全です。
いまのイワンには、ついさっきカジキに追われて必死に逃げていた魚の孤独と絶望が、切ないほどわかりました。
イワンは泳ぎ続けました。しかし、その泳ぎは、いつしかもがくような泳ぎになっていました。
恐怖と疲労が増して、イワンの泳ぎは、とうとうスピードを失いました。
後ろからものすごい水の揺れが押し寄せて、巨大な敵がすぐ背後に近づいたことがわかりました。
「ああ、ぼくがバカだった。自由がほしくて、こんな冒険をしたばっかりに。」
巨大な敵が、後ろからイワンをとらえようとしました。
イワンは、ついに覚悟を決めました。
「お父さん、お母さん。おおぜいの仲間たち。これまで本当にありがとう。ぼくのわがままを許してください。さようなら・・・・・・・」
イワンの小さな体を、巨大な敵が背後から猛然(もうぜん)と飲み込みました。
すると、その瞬間、イワンは、なつかしい温かみを感じました。グルグルとうずを巻きながら柱を作って、猛スピードで泳いでいるいわしの群れ。
「冒険は楽しかったかい? カジキがいたから、君のことが心配でみんなで追いかけてきたんだよ。」
群れの中の一匹のいわしが、そう声をかけました。
巨大な敵、遠く海底の方に見えた巨大な黒い影の正体は、自分の属していたいわしの群れだったのです。
グルグルと回転を続けながら、また別の一匹がイワンに声をかけました。
「誰もが、一度は冒険を試み、群れの意味を学ぶのさ。こうやって大きな群れを作っていれば、どんな敵にも負けない。」
イワンは、自分のことを心配してくれた仲間たちに感謝し、自分が群れに戻れたことを喜びましだ。
「群れが不自由だなんて、もう思わない。」
イワンを飲み込んだいわしの群れは、スピードをゆるめ、再びいつもの群舞に戻りました。
(2010年3月17日)
Copyright: Isshou Tsukino
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