ラビット・ホールの宇宙


                                                             月野一匠
           


 理科の時間になりました。きょうのテーマは、「地球と月」。
 ヒロは、わくわくしました。なぜって――ヒロは、アームストロング船長に次いで、というより、きっと子どもでは世界で初めて、月へ宇宙旅行したラッキー・ボーイなのです。


 夏休みのことでした。ヒロは、林間学校のキャンプに参加しました。
 ガタガタ・バスが高原に着いたとき、最前列の先生が立ち上がり、みんなに向かっていったことばが、よみがえってきます。
「さあ、ここでは自然が君たちの教科書なんだ。いいかい。だから観察と冒険を通じて、全身で学ぼう!」
  観察!
  冒険!
  全身で学ぶ !!
 楽しいキャンプ生活は、先生のこのすてきな宣言で始まったのです。

                           *

「おーい、ヒロ。キアゲハがいるよ。」
「こっちにもだ、あ、あそこにも。」
 なだらかな草原が、林間学校の教室でした。
 教室には、かべも天井もありません。草も花も、虫もチョウも鳥も、風も雲も光も、みんなヒロたちのクラスメイトです。
「めずらしいものを発見したら、図鑑で調べて、名前を覚えるように。」
と、先生はいいました。
「名前を覚えることが、自然と友だちになる一番の方法です。どうしてもわからなかったら、自分でニックネームを付けて呼ぼう。先生は、もうこのキャンプ場を、『勉強の国』と名づけました。」
「ええ! やだよ、そんなの。」
 ときどき高原の起伏の上を、とてつもなくでっかい雲のカゲが、スーッと移動していきました。運がいいと、向こうの丘のてっぺんから、でかい雲のカゲが、斜面づたいにみるみる近づいてきて、サアーッと、あたり一面をのみこむことがありました。
「わあっ。」
 そんな時、高原は、まるで、まほうのじゅうたんでした。


 一日ごとに、教室は広がり、新しいクラスメイトが、おどろくほど増えていきました。
  オニヤンマ……
  コオニユリ、オオマツヨイグサ……
  ノビタキ、カラマツ、セキランウン……
  自然という教科書の中にとびこみ、自分自身も自然の一員になって学ぶ三次元の授業――ふだんの授業に比べたら、遊んでいるみたいに開放的な気分です。 それだけでも夢のような体験だったのに……


 六日目。スケジュールは、夜のキャンプ・ファイヤーに向けて、組まれました。
 全員が、たきぎ集めに、杉林へ遠征です。
杉の木立は、みんな「気をつけ」して、背の高さを競うように、まっすぐ空へ伸びていました。
 その杉の木立の細い横枝をはらって、たきぎをつくろうというのです。
ロープの先に、(ぼう)を結びつけ、水平に伸びた枝をとびこえるようにうまく投げてやると、棒がロープにくるくる絡んで、枝をしめつけます。その時、二、三人が息を合わせて、ロープをエーイッと全身で引っぱると、たいていの枝は、みんなのしりもちと同時に、付け根からボキッと折れました。
 頭上の枝めがけて、ロープの付いた棒を高く投げ上げるのは、ヒロが考えたより、ずっとむずかしい作業でした。
「おしい、もっと高く。」
「よーし、こんどこそ。」
 そのかわり、なれてくると、こんどはターザンみたいに一人でロープにぶらさがって、体重で枝を折り、しかも、ちくちくした葉っぱごとバッサと落ちてくる枝を、すばやくかわせるようになりました。
「やった。」
「すごい。」
 うまく枝をしとめた時の痛快感(つうかいかん)。なかまの歓声と拍手を浴びて、思わず顔がほころびます。
 ヒロたちは、くりかえしくりかえし挑戦しました。
 杉林は、まさに「チャレンジの森」でした。


 なま木のかおりプンプンの枝を束ねてひきあげる時には、もうすっかり狩人の気分です。しとめてきた枝々を積み上げると、盆おどりのやぐらのように高くなりました。自然と、周りは全員の輪です。
「いやあ、よくこれだけ折ったもんだ。みんなもほねが折れたろう。でも、この杉をたくのは、七時すぎ。その前に、夕ごはんをたこう。」
 先生が、こったシャレをとばして、当番が、夕ごはんのしたくにかかります。  ヒロも、さすがに、おなかがすきました。


「いただきまーす。」
 みんなの食欲が思わず声に出て、大きなあいさつが、合唱みたいにキャンプ場にひびきわたりました。
 いつもはあまり食べないアツ子ちゃんも、めずらしくごはんをおかわりして、おかまとおなべの中は、みるみる減っていきます。
 食べるあいだじゅう、だれもが周りの席の友だちと、昼間のたきぎとりのスリリングな感想を、口々に交換し合いました。
 早く食べ終わったヒロは、キャンプ・ファイアーの開始が待ち遠しくてなりません。
(冬の小さなたき火だって心がはずむのに、今夜は、あのすごい杉山をいちどに燃やすんだ。きっと空の星たちも、心おどらせるにちがいないよ――)
 ああ、赤々と燃えるキャンプ・ファイヤーを想像するだけで、ヒロの心は、宙に舞いそうです。
「早く七時になれ!」


 ところが、全員で「ごちそうさま」をするころになって、高原の空気が何だか急に白っぽくなってきました。霧です。
「わあ、向こうが見えないよう。」
 キャンプ場は、とつぜんの霧にざわめきました。


 暗やみの中を、懐中電灯(かいちゅうでんとう)の光がレーザー光線のようにまっすぐ走るのは、夜霧(よぎり)のせいです。一人ひとりの手もとから伸びる白い光の棒が、杉山を遠まきにして、あちこちで交差しました。
 ガソリンのにおいがして、
「準備完了!」
という先生どうしの小声――。
 数秒して、
「10、9、8・・・」
と、先生が大きな声でカウント・ダウンを始めました。
「7、6、5、4・・・」
と、ヒロたちも、いっせいに声を合わせます。
「3、2、1・・・0!」
 目の前に、とつぜんボーっと、真っ赤な炎が浮かび上がりました。
「うわあー。」
 歓声をあげながら、ヒロたちは、ファイアーに向かってかけ寄りました。
 近づくと、熱気とバチバチいう音が、「どうだ」と、まるで自分たちに、戦いをいどんでいるかのようです。
「アッチーッ。」
 思わず上体がそりかえります。
 燃えあがる火のふもとでは、友だちの顔もはっきりと見えましたが、どの顔もめらめらと真っ赤です。
 だれもが、
「赤おにだ。」
「赤おにだ。」
と、おたがいに、いい合いました。
 炎にばけた杉の枝は、時々くずれては、またうずをまいて、はげしく燃え上がりました。
「火って、生きているんだ。すごいや。」
と、ヒロは思いました。


 その時です。燃えさかる炎の下から、何か輝くものがとびだして、ヒロの足下を、パッとかけ抜けました。
(うさぎ?)
 考えるよりも早く、ヒロの懐中電灯は、サッとそれを追いました。
金色(きんいろ)うさぎだ。」
 まちがいありません。数メートル先へ伸びた光線の先たんが、金色の毛のうさぎをとらえています。
「待て!」
 いうと同時に、ヒロの体は、赤みをおびた墨色の夜霧の中へ再突入しました。
 視界は、足下も周りも、たちまち真っ暗やみです。ヒロは、懐中電灯を触角(しょっかく)のように思いきり前へ突き出して、金色うさぎの後ろ姿を、たくみに追い続けました。かけっこには自信があります。
(いい距離(きょり)たもってるぞ。もうちょっとで追いつける……)
 ところが、的にしていた金色の輝きが、光の先から、とつぜんポッと消えました。
「あれ? おかしいな。」
 今の今まで、目をこらして追ってきたのです。うっかり見失った。とは思えません。うまくかわされた、という感じでもありません。
 ヒロは、うさぎが消えた地点を、懐中電灯の光でしっかりとおさえながら、注意深く歩み寄りました。
 地中から岩が盛り上がっていって、岩の下に、小さなほら穴ができています。
「ははーん。」
と、ヒロはうなずきました。
「もう、こっちのものだ。」
 ヒロは、ほら穴の中をのぞきこもうと、岩の下にかかみました。すると、顔に、早い空気の流れを感じます。何と――ひとみの前で、懐中電灯の光の中を、白い霧が、ほら穴の奥へ向かってスースー流れこんでいるではありませんか。
「霧が、ほら穴に吸いこまれている!」
 霧と同じように、ヒロの気持ちも、ほら穴に吸いこまれていきました。


「おーい、うさぎぃ。」
 ヒロは、穴の中で、はらばいのまま呼んでみました。足先から頭の方へ、空気がすごい速さで流れていきます。声も、エコーして先の方へ抜けていきました。
「そうか、この穴はトンネルなんだ。」
とすれば――金色うさぎは、もうこの穴を抜け出ていても、おかしくありません。
「急がないと。」
 ヒロは、地中のトンネルを、ウンウンいいながら、ひじで、はい進んでいきました。
 予想したより、いやに長いトンネルです。
「どこまで続くんだろう。」
 ヒロは、昼間の草原を思いおこしました。
 地上とちがって、岩穴の中は、姿勢が自由になりません。ヒロは、きゅうくつなはらばいで、じれったく前進を続けるしかありません。
(ふう。このままじゃ、ヘビになっちゃうよ……。だけど、そろそろ地上に出てもいいはずなのに。)
 まったく長い横穴です。
 でも――そのわりには、胴の重みをあまり感じません。それどころか、速い追い風を受けて、むしろヒロの動きは、少しずつ楽になってきました。
「ほんとにヘビになっちゃったんじゃ、ないだろうな。」
 ヒロは、思わず止まって、右手の懐中電灯の先を自分の左手に向けると、照らされたこぶしをひらいて、五本の指をたしかめました。
 その時、まっすぐ前方に、青い光が見えました。
「出口? 横穴のまま?」
 そうか、トンネルは、きっと高原の斜面に抜けたのです。


 青い光は、夜空の色でした。
「霧が晴れたんだ。」
と、ヒロは思いました。
 ヒロは、やっと手足を伸ばせるうれしさにひたりながら、穴の出口から上体をぐっと出して、外をさぐりました。
 が、何ということでしょう。斜面どころか、外は、ヒロの胸の真下で、そそり立つように切れていて、目の前には、途方もない空間が広がっています。
 ヒロは、ブルッと身ぶるいして、思わず身を引こうとしましたが、逆に、穴の中から吹く風に押し出されるように、頭から全身、空中へ放り出されてしまいました。
「助けてぇー。」


 目をあけると、ヒロは地上にまっすぐ立っていました。足下に、暗い深い穴があいています。
 たしか……ヒロは、横穴をけんめいに、はいくぐって来たはずです。
 それが外へ出てみれば、こんな縦穴(たてあな)だったなんて!
(ここは、いったいどこなんだろう。)
 草のない、石だらけの大地です。四方を見まわしても、キャンプ・ファイヤーのあかりは、どこにも見つかりません。
 ヒロは、夜空を見上げました。
「あれ?」
 みょうに気味のわるい半月が浮かんでいます。いや、月ではありません。青みがかった地色に、茶と白のまだら模様(もよう)――。どこかで見た記憶のある天体です。
(地球?)
「まさか!」
 ヒロは、目をこらしながら、頭の中で、大いそぎで天体図鑑の知識をたぐりました。
 地球にまちがいありません。左だけの半円とはいえ、色も模様も「月から見た地球の姿」というカラー写真に、そっくりです。
 ということは――
(自分はいま月にいるのか?)
 ヒロは、おどろきました。
 周囲は、冷たく静まりかえった、色のない世界です。これも、天体図鑑で見た月面の写真に一致しています。
 ヒロは、天空の地球と足下の穴を、交互に見ました。あのメラメラ燃えていたキャンプ・ファイヤーが、あんな空のかなただなんて。この穴が、この地球の岩穴とつながっているなんて……。
「信じられないや。」
 あまりにも遠く離れた、地球と自分との距離です。帰るにしても、ヒロには、もうこの穴を逆もどりすることが有効だとは、思いませんでした。
「あーあ、とんだ所に来ちゃったな。飛んで来たわけでもないのに。」
と、ヒロはつぶやきました。


 ヒロは、右手にずっと、懐中電灯にをにぎっていました。
「そうだ。地球に信号を送ろう。」
 どこか晴れていれば、望遠鏡で月を見ている人がいるかもしれません。
「おーい。」
 ヒロは、地球に向かって、懐中電灯で、思いきり大きな○や×や△を描きました。
 合図を送りながら、ヒロは、地球からも信号が送られてくるのを、待ちました。
 しかし、けっきょく、応答はありませんでした。
 地球の欠けた右半分に、キャンプ・ファイヤーの赤い火がまったく見えないのは、きっとまだ高原が、夜霧に包まれているからにちがいありません。
(おしいなあ。うまくいけば、みんなと懐中電灯で通信ができたのに。)


 ヒロは、あきらめて、足下の石をくつの先でけりました。すると、小石は、土ぼこりを残して、スローモーション・ビデオのようにゆっくりと、前方へ飛んでいきました。
「あれえ?」
 ヒロは、もう一度、別の石を、今度は力いっぱけり上げてみました。黒い石が、足の先から放り出されて、ゆるやかに回転しながら、地球の左の空へカーブして飛んでいきます。石はまーるく山形を描いて落ち始めました。その静かな動きを、ヒロの目は、ズーム・カメラのように追いました。
 石は、すっかり空のシルエットになって、沈むように、遠くの地面に落ちました。
 まるで、時間が止まってしまったかのようなシーンでした。ヒロは、石の落ちた地点を、しばらく見つめていました。
 その時――
 はるか向こうの地平に、何か光るものが見えました。それは、ものすごいスピードで、水平に左へ移動していきます。
「金色うさぎだ!」
と、ヒロは直感しました。
(そうだった。こいつのせいで、ぼくは、月へ来たんだ。ようし、今度こそ、ぜったいつかまえてやるぞ。)
 ヒロは本気です。
 じっと見ていると、光は、月の地平に沿って、ぐんぐん移動しています。
 左へ左へと光を追って、ヒロの体が地球に背を向けた時、光が静止しました。いや、止まってはいません。こちらへ向きを変えたのです。
 ヒロは、気づかれないように、急いで身をかがめました。
 光は、ゆっくり近づいてきます。しかし、その動きには、地面をはねているような上下の揺れが、まったくありません。静かに、まっすぐ進んできます。
 金色うさぎは、地面を走っているのではありませんでした。ヒロの目に、前あしを鼻の先にそろえて体を平たくし、低空を遠くから、野球のボールのように飛んでくるうさぎの姿が、はっきり映りました。予想以上のスピードです。
 ヒロは、ハッとしました。今、自分の背後の上空には、地球があります。
(そうか、うさぎは地球めざして離陸しているんだ!)
 気づいたしゅんかん、ヒロの頭上を金色の輝きが、弾丸のように通過していきました。
 が、ヒロの足も、地上をけっていました。


 ヒロは体をひねって、みごとに金色うさぎの後ろあしを、両手でつかんでいました。金色うさぎは、さらにスピードをあげ、急上昇を始めました。月面が、ぐんぐんヒロの視界の下に消えていきます。ヒロは、めまいがしそうで、必死に、金色うさぎの後ろあしを強くにぎりしめました。
 気がつくと、目の前の金色うさぎの向こうに、丸い美しい地球がありました。
 明るい左半球は、油絵のようにこく彩られ、暗い右半球は、墨絵(すみえ)のように穏やかです。
(宇宙を飛んでいるんだ。)
 ヒロは、初めて心に余裕を感じて、うっとりしました。
 ヒロの体は、金色うさぎといっしょに、吸い寄せられるように、地球に近づいていきました。


 地球のりんかくが、しだいにヒロの視野いっぱいに広がってきます。球面が平らになり、次のしゅんかんには、海や陸地が、まるで垂直のかべのように、正面に迫ってきました。
(どこだろう、この地形は。)
 ヒロは、とっさに世界地図を思い浮べましたが、接近の方位がちがうせいか、見当がつきません。
 海には名前が書いてないし、陸地も国別に色分けされてはいません。
 さざ波たつ海、褐色(かっしょく)の平地、ひだ深い緑の山々――自然だけの大パノラマです。
 とつぜん、ドーンとしょうげきがして、台風みたいな風圧です。体が、燃えそうに熱くなってきました。金色うさぎが、ゆっくりネジのように、体を回転させながら、右へぐんぐん向きを変えていくのが、目をつむっていても、体の感覚でわかります。
(着陸態勢に入ったんだ。)
 ヒロは、両手にぐっと力を入れ、めまいを感じながらも、行く先はあの高原のキャンプ場にちがいないと、確信しました。


 金色うさぎは、暗やみの中を突き抜けていきます。
 はるか前方に、赤々と燃える炎が見えてきました。
 キャンプ・ファイヤーです。
 周りには、ぐるりと――懐中電灯の光でしょう――数十のあかりが、星のようにチカチカ点滅して、まるで金色うさぎを誘導しているかのようです。
 ヒロたちは、斜め上空から、まっしぐらに急降下しているのでした。
 金色うさぎは、ヒュンヒュン風を切って、炎をめざします。地上に人影が見えました。うさぎはスピードを落としません。
「ああ、ファイアーに突っ込む!」
と思えたしゅんかん、金色うさぎは、グーンと急上昇に転じました。
 いっしゅん、ヒロは、体が垂直に浮くのを感じました。
「今だ!」
 しっかりにぎりしめていた両手をパッと離すと、ヒロの体は、そのままゆっくりストンと、地上に降り立ちました。


 目の前で、杉山がゴーゴー燃えています。周りでは、なかまたちが、何ごともなかったように歌を歌っています。霧は、少し晴れています。
(金色うさぎは――)
 ヒロは、ハッと急いで空を見上げましたが、上空には、キャンプ・ファイヤーの火の粉が、散りながら舞いのぼっていくのが、見えるだけでした。
「さよなら……。ありがとう、金色うさぎ。」

                           *

 林間学校は、翌日、終了しました。本当に夢のような、いいえ、夢ではない――そのしょうこに、ヒロは、懐中電灯を月に残してきました――すばらしい宇宙体験をした、夏のキャンプでした。





あとがき:理科の授業が始まりました。地球と月は、親子? 兄弟? 夫婦?




 月野一匠『おじいちゃんのポッケ―月野一匠童話集』より。
 挿絵:こまつみほ
  Copyright:Isshou Tsukino
 (禁 無断転載)


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