歩禅――我歩く、ゆえに我あり――

                                  小松 章

 
 人生半ば、道遥か。周囲の情勢に押し流されて、自分自身を見失って
 いるのではないかと思うこのごろである。そんな心境の中で、ようやくにして
 探り当てた悟りは、実践哲学としての「歩禅」(ほぜん)である。

  歩禅とは何か。座禅が座る禅行であることは、誰もが知るところ。歩禅は、
 読んで字のごとく、歩く禅行を意味する。座れば座禅、歩けばこれすなわち
 歩禅なりだ。座禅が瞑想禅なら、歩禅は活動禅であるといってよい。
  道元禅師は、座禅の極意を「只管打座」(しかんたざ=ひたすら座れ)と
 説いた。歩禅の極意は、「ひたすら歩け」だ。

  折から、世は健康志向ブーム。歩きを意味するウォーキングなる英語も、
 日本語の中に定着し、アウトドア・スポーツの一カテゴリーを形成するに
 いたった。進化論は教える。人は、手を使い二本の足で直立歩行することに
 よって、人になったのだということを。遠い石器時代の昔からずっと歩き続けて
 きたはずなのに、人間、何をいまさらウォーキングなのか? 答えは 明白だ。
 それだけ文明国の人間が、自動車の利便性に毒され、歩かなくなったという
 ことだろう。
  だが、私は、もともとドライブより遠足派の歩行者だ。いまさら舶来のウォーキ
 ングを、必要とはしない。ブームであれば、なおさら流されたくはない。
  私の実践哲学は、あくまでも歩禅である。レジャーのためではない。たんなる
 健康のためでもない。現実逃避のためでもない。ならば、何のために歩くのか?
  わからない。歩くために歩くのである。歩くことは、目的であって、手段では
 ない。効用を考えず、見返りを求めず、ただ黙々と歩く。それが歩禅の世界な
 のである。

  歩禅とは、歩きを超えた歩き、何ものからも解放された歩き、つまり純粋な
 歩きの世界に、身を投ずることにほかならない。
 
 歩禅は、三つの歩き、すなわち「独歩、静歩、完歩」によって達成される。
  独歩とは、文字どおり一人で歩くことをいう。その精神は、「競わず」だ。
 他者に支配されない自分自身の歩き、自律の歩きをしよう。それが自分本来の
 歩調なのだ。
  静歩とは、急がず無理をせず、心身を整えて歩くことを意味する。その精神は、
 「力まず」だ。歩けば疲れる。足が痛む。苦しさに向き合い、その中を黙って
 ゆっくり歩き抜けよう。
  完歩とは、歩きを続けることをいう。その精神は、「諦めず」だ。今日及ばなか
 った行程は、明日めざそう。明日はできると信じることだ。歩きに
完成はない。
 完成は歩き続けることの中にある。だから、歩けるかぎり、歩き続けよう。
  歩禅は、哲学であって、形式ではない。踏みしめる大地のあるところ、すべてが
 万人に開かれた道場である。歩く距離は、長短を問わない。どこをどう歩くかは、
 自由である。自由こそが、歩禅の真髄なのだ。意志さえあれば、いつでも、
 どこでも、誰にもできる禅行、それが歩禅にほかならない。

  というわけで、私は、歩禅の実践を心に誓った。「競わず、力まず、諦めず」に
 歩こう、と心に決めた目標は、「千里の道も一歩から」を実践すべく、一千里。
 すなわち3,927.3キロメーターを歩くことだ。これを、一生のうちに、小さな
 「独歩、静歩、完歩」の積み重ねによって、達成しようと思っている。

  私が歩くのは、もっぱら野山である。日常の通勤の歩きは、他律的だから、
 計算には入れない。できることなら、ゆくゆくは、登山や海外旅行も取り入れたい
 と願いながら、普段は、近くの好きな山を気ままに歩いている。ときおりめぐる
 コースの途中に、ちょっとした岩場があり、若者たちがロッククライミングの練習に
 励んでいるのを見かける。「ロッククライミングの最中は、すべてを忘れる」と、
 山好きの知人から聞いたことがある。命をかけるときは、たしかに全身全霊を
 傾けることができるのだろう。学問に命をかけたことがあるかと自問し、あるくらい
 ならこんなところを歩いていたりはしないと、反省を込めて自答する。

  道あるところ、先人あり。感謝して、その道に従う。道なきところ、我が道あり。
 ときには林の中に踏み入って、ささやかな冒険を試みる。
  歩禅は、効用を求めて行うものではない。求めれば、歩きはただそれだけの
 ものとなる。無欲で臨み、無心に歩き、結果として与えられる効用があれば、
 ありがたく受けよう。道中、出会う人とは、他生の縁。ことばを交わせば、教えら
 れることも少なくない。
  歩禅と称することはなくても、現代でも、歩きに徹する人は多い。観音霊場の
 巡礼者、芭蕉に引かれて奥の細道を辿る人、旧街道や自然歩道を歩き通す人、
 好きな山に何千回と登り続ける人、歩きの限界に挑み続ける人・・・・。私は、
 これらの人たちを歩禅の先人と仰ぎ、その体験談に学びながら、一千里の
 旅路を歩き始めている。

  我歩く、ゆえに我あり。エンドレス・ジャーニーこそ、我が人生の憧れだ。



                               
(2001年3月5日)


 (注) この文章は、もともと文書(流雲会配付)で発表したエッセーを、一部改訂して転載したものです。
 (当初は、「独歩・黙歩・完歩」としていたものを「独歩・静歩・完歩」に改訂しました)。
   
「歩禅」(ほぜん)という言葉は、私の造語ですが、文書エッセーを、禅宗の僧侶である石塚師に
 お読みいただき、この使い方が禅の伝統精神に反するものでないことを確認できましたので、その後、
 WEB上にも発表しました(当時AOLサイト)。すぐに、歩きを趣味とするサイト上で話題になり、いい言葉
 なので使用させてほしいという要望が寄せられました。もちろん言葉の使用も実践も全くご自由です。
   なお、中国には同じ意味で「行禅」という言葉があるそうですが、このエッセーを目にされた呉小丁
 先生(吉林大学教授)が、「歩禅」という言葉の方が語感が美しいと、「歩禅」の文字を彫った篆刻(てん
 こく)を贈って下さいました。光栄に思います。
                            
                    呉小丁先生から贈られた「歩禅」の印

 (追記) このたび呉小丁先生が、この文章を中国語に翻訳して下さいました。本当に光栄です。
  中国の方々にも、歩禅を理解していただけることになりましたことを、大変嬉しく思っています。
  (2008年12月17日 小松章)

歩禅(中国語・呉小丁訳)
歩禅(中文・呉小丁訳)@小丁菜園

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