カ ガ ミ

                                      月野 一匠



 ある日の電車内の光景である。

 少女は、別段のためらいもなく優先席へ腰をかけた。
 車内は、さほど混んでいるというわけではなかった。一般の座席にも、
ところどころ空いている場所は見えたのだが、優先席にはだれもいなかった
から、かまわず足を向けたのだ。
 腰を下ろすと、少女は、右手に提げていたアルミ色のエナメル・バッグを、
そのまま脇に置いた。ひざ上に載せれば載る荷物であったが、横に空間が
あったから置いたのだ。
 背もたれに寄りかかると、少女は、背筋を伸ばすでもなく、脚を組んだ。
 少女といっても、子どもではない。組み上げた右脚の太ももがむき出しに
なっている。たとえ同年代でも、他の娘なら、スカートの裾を引っ張るくら
いの仕草は見せたであろうに、少女はまったく気にしない。周りに人がいな
いから、というわけではないようだ。向かいの席に年寄りが二人あいついで
座ったが、少女は気にもかけない。
 脇に置いたバッグに手を突っ込むと、少女はケータイ電話を取り出した。
 すばやく親指がボタンを押し、かしげた首の、髪に隠れた耳元へ持っていく。
「オッス、今どこ?」
ハスキーな声が、男ことばを発した。
「そっか。ところでさー、昨日のアレ見た? スッゲー良くなかった?
 ダヨネ。」
話の内容は、テレビの番組らしい。急ぐ用ではなさそうだ。
「アハハハハ」
何がおかしいのか、少女はときに上体を揺すって笑っている。
 次の駅で、左隣に年寄りが一人座ったが、少女の意識は、電波の先へ
飛んでいる。ケータイも組み脚も、そのままだ。
 さらに、一人の老人が少女の右側へ来た。バッグが置いてあるから、
掛けられない。
「座らせてもらって、いいかしら?」
ゆっくりした丁寧な口調で、少女に声をかけた。
 通話をさえぎられた少女は、面倒くさげに、右手でバッグを自分の脇に
寄せた。これだけあれば十分だろう、すき間に座れということか。
 老婦人は、バッグに目をやりながら、腰を下ろした。
 自分のバッグが押されたのを感じ取ると、少女は、無言のままバッグを
グイっと引き上げて、ひざに載せた。隣人のためというより、自分の
バッグがつぶされてはいけないという動作に見えた。
 少女は、姿勢のバランスを取るために、組み脚をやめた。
 それでも、
「ウッソー、マジ? ヤバクねー。アハハハハ」
耳障りな日本語が、あたりかまわず響く。
 いまや少女にとって、話す二人称の相手は、そこに不在の第三者であり、
目の前にいる乗客たちは、三人称の地位におとしめられている。
 ケータイを離さないかぎり、この状況は変わらない。
「アハハハハ」
 通話の相手も、負けず劣らずヒマなのであろう。それとも、もしや別の
電車の優先席に腰かけているのであろうか。
 周囲には、一般客も立つようになって来た。
 迷惑そうな視線が少女に向けられるが、視線を向けた側が不快になる
だけで、抑止にはならない。非難や嘲笑の眼差しには、もう慣れっこに
なって、免疫ができているのだろう。冷ややかな視線が全身に鋭く突き
刺さっても、少女の心に痛みは生じない。
「じゃーナ」
という声とともに、通話はやんだ。
 やれやれと周囲が思ったのを、知ってか知らずか、少女がケータイと
入れ替えにバッグから取り出したのは、コンパクトだ。
 どうやら、次は化粧らしい。
 公共の場で本格化粧はあるまいに、少女にとっては、周囲の乗客は、
しょせん赤の他人でしかない。
 少女の目は、カガミの中に集中し、カガミの枠外にはいっさい無関心の
様子だ。左手にカガミを持ち、右手につまんだカーラーで、まつげを懸命
に反り返らせている。
 少女の右手が止まったのは、自分の両ひざに、前に立った乗客の脚が
触れたからだ。
 車内は比較的混んできていて、老女が少女のすぐ前に立っていた。腰が
曲がり姿勢が前かがみのため、老女の顔が少女の頭のすぐ上にあった。
 少女は、ギクッとした。
 老女の白髪はバサバサで、顔のひふにはシミが浮かび、深いしわが刻ま
れている。普段見なれた自分の肌とは、何という違い。
(醜い)
少女は、そう思った。
(こんな風にはなりたくねーな)
 少女の心に浮かんだのは、それだけだった。席を譲ろうという気持ちには、
寸分もならなかった。
(汚いものを見てしまった。化粧のジャマだよ)
 少女は、老女を無視して、再びカガミを見た。


「アレ?」
と、思わず少女の口から声が出た。
 少女は、まばたきして、カガミを確かめた。中に映っているのは、なぜか
老女の醜い顔だった。
(変だな)
 少女は、目の錯覚かと、顔を上げた。
 老女と目が合った。死んだ魚のような眼だ。
(ゲ、キモイ)
 少女は、いやなものを見たという目つきで、もう一度、カガミを
覗き込んだ。
(何だ? このカガミ)
 目を凝らして見ても、カガミの中にいるのは、たったいま目が合った
老女の顔だ。死んだ魚のような眼が、カガミの中から少女を見つめている。
(クッソー、何だよ? このカガミ)

                 *

 奇妙な現象は、カガミのせいではなかった。
 カガミは、まさに少女自身を映していたのである。カガミの中にいるのは、
まぎれもなく少女自身なのだ。ただし、それは、五十年後の少女の姿で
あった。
 そう、少女の目の前に立っている醜い老女は、五十年後の少女本人だった
のである。
 五十年後といえば、当人はまだ七十歳前のはずである。しかし、やつれ
果てたその容貌は、どう見ても九十歳より若くは見えなかった。
 だれからも相手にされず、存在を無視されて生きてきた結末が、その醜い
容貌であった。


 カガミは、正直に自分を映し出す。
 自分が笑えば、カガミの中の自分も笑う。自分が怒れば、カガミの中の
自分も怒る。自分がカガミの中の自分を無視すれば、カガミの中の自分も、
カガミの前の自分を無視する。
 カガミは、あまりにも正直である。


 老女は、疲れ切っていた。しかし、目の前の優先席に座った少女は、
自分を無視している。
(何て小娘だ)
 老女は、つばを吐きかけたい思いだったが、目の前の少女は、おかまい
なしに平然と化粧を続けていた。


                      (2008年6月4日)




あとがき: 読後感がよくないという方は、ぜひ「地下鉄」をお読み下さい。きっと心が洗われると思います。



Copyright: Isshou Tsukino
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