ナム

                                                       月野 一匠

 

 ある家の庭先に、ガーベラの植木鉢が、並べて置かれていました。真っ赤な花、黄色の花、オレンジ色の花。
 日光を浴びるとまぶしいくらいに輝く花々が、今日は雨にぬれて、しっとり落ち着いています。
「ねえ、お母さん。雨はどこから降ってくるの?」
 おや、黄色い花の鉢の底から、小さな声が聞こえてきました。
 それは、鉢底の下に暮らすなめくじの子どもナムの声です。
「雨は、お空から降ってくるのよ。」
 今度は、ナムのお母さんの答える声が、きこえました。
 

 なめくじの親子は、湿った植木鉢の底に吸い着いて、並んでいました。
「今日は、お日さまが照っていないから、外に出てみましょうか。」
 お母さんが、そう言いました。
 雨の中、なめくじの親子は植木鉢の底から、そうーっと外に出ました。
    ピチャ、ピチョ、ピチャ、ピチョ
 地面に当たった雨つぶが、土といっしょに、はね上がっています。
 親子は、土つぶの付いた植木鉢の側面を、静かに上っていきました。
 鉢の上に上りきると、そこは、植木鉢のふちに仕切られた丸(まある)い広場です。上には、ガーベラの葉っぱが広がって、雨つぶを受け止めています。
   ポタ、ポト、ポタ、ポト
 ガーベラの葉っぱは、根本から周りに向かって、何枚も重なるように、シワシワと生えています。そして、その葉っぱの中心から、細長い緑色の茎が、何本かスーっと上に伸びています。
 なめくじの親子は、ガーベラの葉の重なりをくぐりぬけると、お母さんが、真上に伸びた一番背の高い茎をえらんで、さらに上をめざします。
 親子は、茎を伝って、ガーベラの黄色い花のつけ根のふくらみまで上って来ました。
  ガーベラの花は、上から見ると、お日さまの形に似ています。真ん中から細長い花びらが、何枚も周囲に向かって伸びています。周りの細長い花びらは、まるでお日さまから放たれる光のようです。
 人間の子どもたちは、「花の絵を描いてください」と言われると、「何の花?」と聞く前に、頭の中に自分の花のイメージを広げて、サッと描くことができます。
 子どもたちの多くは、丸を描いて、その周りに六枚から十二枚くらいの花びらを描きます。それは、ユリでもバラでも、チューリップでもなく、ガーベラの形です。花びらの数が増えると、一枚ごとの形も細長くなりますが、それはもうガーベラの花そのものです。
「お母さん、お花の上に上っていい?」
  お母さんの横に並んだナムが、たずねました。
「いいわよ。」
  お母さんが答えました。雨が降っているときは、昼間でも、花の上に、ハチやテントウ虫がいないことを、お母さんは知っています。
 ナムは、花びらと花びらのあいだを押し分けて、花床と呼ばれる、花の真ん中の丸い丘の上に出ました。
 ガーベラの花のてっぺんです。
  体のわきに、雨つぶが落ちてきました。雨つぶは、花床の上で形を失って、水になりました。その水が肌にふれると、ひんやりした冷たさが、心地よく感じられます。
「お空から降ってくるんだね。」
  ナムは、そうつぶやいて、頭上を見上げました。
 こい灰色の雲が、空をおおいつくしています。
「あの雲たちが、雨のふるさとなのよ。」
  続いて花床に上ってきたお母さんが、そう言いました。
  広ーいお空を一面におおっている雲たちですが、よく見ると、そこには様々なもようがあって、自分たちなめくじの動きと同じくらいの遅さで、ゆっくりゆっくり、同じ方向へ流れています。
 ナムは、次々に落ちてくる雨つぶを浴びながら、あきることなく空を見上げていました。
 

「せっかくだから、お花をいただいて帰りましょう。」
 どのくらいたったでしょうか。お母さんが言いました。
  ナムは、われに返りました。
「はーい。」
  いつもなら、夜、日が落ちてから花の上に上ってきて花びらを食べるのですが、今日はせっかくここまで上ってきたので、お母さんの提案で、少しだけ花びらを食べて帰ることになりました。
  雨の日とはいえ、ふだん、お月さまの光の下で見る花びらとちがって、昼間見るガーベラの花びらは、色鮮やかで、ちょっぴりおいしく感じました。
 

 その夜、雨があがって、雲の切れ間から、まん丸なお月さまが、庭を照らしました。なめくじの親子は、再び植木鉢の底から出て、ガーベラの茎をはいのぼり、花びらを押し分けて、てっぺんの花床の上に来ました。
 ナムは夜空を見上げました。雲の合間に、お月さまと、無数の星が輝いています。
「何て、美しいんだろう。」
  ナムは、うっとりしました。
 じつは今までも、ガーベラの花の上には、この光景があったのです。でも、今夜、ナムが初めて夜空の美しさに感動したのは、昼間、雨の中で、空の存在を意識したからでした。
 ナムは、自分が雲になってお月さまの近くにゆっくり浮かぶ姿を想像しました。
「雲になってお空に浮かんでみたいな。」
  ナムは、ひとりごとのようにつぶやきました。
 すると、それを聞いたお母さんが言いました。
「私たちも、いつかはきっと、お空に浮かべるにちがいないわ。」
「え?」
 ナムは、おどろきました。
 自分は、ただ空に浮かんでみたいなって、夢みたいなことを、ふと思っただけなのに、お母さんは、いつかきっとなめくじも空に浮かぶことができる、と言ったのです。
 ナムは、お母さんの顔を見ました。
 お母さんは、じっとお月さまを見つめています。
「ナム、お母さんもお空にあこがれるわ。お父さんも、おじいちゃんやおばあちゃんたちも、お空に浮かんでみたいって、言ってたことがあるわ。お空に浮かぶことは、なめくじの共通の夢ね。」
(そうか、ぼくだけじゃないんだ。)
 ナムは、自分がいま思い描いている空へのあこがれは、けっして自分ひとりのものではなく、なめくじという存在のおおいなる夢であることを知りました。
「でも、・・・・・」
  ナムには、まだ不思議です。お空に浮かぶことがなめくじのおおいなる夢だとしても、どうして本当に空に浮かぶことができるのでしょう。

 

 お母さんは、ナムの疑問に答えるように、語り始めました。
「遠い昔、なめくじは海の底で暮らしていたの。私たちの祖先は、巻き貝という貝だったのよ。背中に、渦を巻いた貝がらを背負って、深くて暗い海の底で、海草を食べて暮らしていたの。」
「海って?」
  ナムは、たずねました。
「海というのは、この広い陸地の周りにある、もっと大きな水の世界よ。水たまりや池や湖は、陸地の中にある、限られた水の世界だけど、海は、陸地の周りにあって、どこまでも広く、どこまでも深い水の世界なのよ。」
  ナムは、初めて聞く話にびっくりしました。なめくじの祖先が、巻き貝で、そんな大きな水の世界の、深くて暗い底で暮らしていたなんて、とても信じられません。
 お母さんは、話を続けます。
「そんな巻き貝の中に、明りが下りて来る、はるか頭上の海面の上を見てみたいって、あこがれる仲間が現れたの。そのあこがれは、だんだん冒険心に変わって、生まれた巻き貝の子どもは、少しでも浅いところで暮らすようになり、その子どもはさらに浅いところで暮らすようになって、それをくり返すうちに、巻き貝の子孫は、とうとう自分たちの生活の場を、陸に近い浅瀬にまで移したのよ。
 そして、いよいよ思い切って海面から顔を出してみると、目の前には陸地があって、海の上にはおいしい空気がいっぱいあったの。」
 ナムは、それを聞いてホッとしました。深くて暗い海の底ってなんだかとっても息苦しそうで、いつの間にか、自分も息をこらえるように聞いていたのです。
 ナムは安心して、小さな体で深呼吸しました。海の上に出た巻き貝たちも、きっと陸のおいしい空気を、いっぱいいっぱい深呼吸したにちがいありません。
 では、おいしい空気を吸った後、巻き貝たちは、どうしたのでしょうか。ナムは、お母さんの話に耳を傾けます。
「海面の上に出た巻き貝たちは、目の前に開けた陸の上で暮らそうと決心したの。ここは祖先がずっとあこがれてきた世界なんだ、私たちはついにたどり着いたんだ、って喜びながらね。
 さいわい、陸には色んな花や草があったから、食べるものには困らなかったの。こうして、陸に上がった巻き貝たちは、海に戻ることをやめて、背中に貝がらを背負った陸上の生き物、つまりカタツムリに進化したのよ。」
「え?」
 ナムは、ただおどろくばかりです。なめくじの祖先が巻き貝で、その次にカタツムリになっただなんて。
「もちろん、初めは、巻き貝が陸に上がっただけだから、カタツムリのカラも、ゴツゴツして、とても厚かったのよ。でもね、貝がらは、海の中では重さを感じなかったのに、陸の上では、すごく重たいの。まるで、いつも自分の家を背中に担いでいる感じね。」
「それは大変だね。」
  ナムは思わず、体に力が入ってしまいました。
「そうよね。そこで、カタツムリたちは、少しでもカラが軽くなるようにって、願うようになったの。親からカラが軽ければ自由に動けていいのにねって聞かされた子どもは、カラが軽くなるようにって、もっと強く願うようになり、その子どもはもっともっと強く願うようになって、それをくり返すうちに、カタツムリのカラは本当に軽くなったのよ。ゴツゴツした重くて厚いカラから、薄くて軽いカラにね。」
「それは、よかったね。」
と、ナムは言いました。
「そうね。」
と答えて、お母さんは、話を続けます。
「でも、その時、多くのカタツムリは思ったの。このくらいの軽さなら自由に動けるし、もうこれ以上、カラが薄くなったら、かえって身を守ることができなくなってしまうって。」
「そうか」
と、ナムは思いました。巻き貝もカタツムリも、背中の貝がらは、たんなる住み家ではなくて、身を守る大切な物なんだ。でも、それなら、いったい何で、ぼくたちなめくじには、カラがないんだろう。
 ナムは、祖先にあった大切な貝がらが、なぜ、なめくじにはなくなってしまったのか、すごく不思議になりました。
「ねえ、お母さん。なめくじにはどうしてカラがないの?」
  ナムは、待ちきれずにたずねました。
  お母さんが答えます。
「自由に動けるようになったカタツムリたちは、軽くなったカラに満足したんだけど、その中に、行動の自由だけでなくて、もっと大きな自由が欲しいって思う仲間が現れたの。
 海でも陸でも、背中の貝がらが身を守ってくれたということは、周りに自分たちをおそう恐ろしい敵がいるっていうことね。どんな動物でも、敵に出あったら、逃げたり隠れたりするか、あるいはその敵を倒すしか、自分自身が生き残る方法はないの。
 でも、そのカタツムリの仲間たちは、逃げたり隠れたり、まして自分が他の動物を攻撃したりする必要のない世界を願ったの。争いのない平和な世界で生きる本当の自由を、求めたのよ。
  逃げるなら、もっと早く動ける方がいいし、敵を倒すなら、もっと強い方がいいわね。でも、その仲間たちは、速さでもなく強さでもなく、ただ純粋に、平和な世界に生きる自由を願ったの。そして、その仲間たちから生まれた子どもは、平和な世界をもっと強く願い、その子どもは、もっともっと強く平和な世界を願ったの。それをくり返すうちに、とうとうカラを持たない世代が誕生したの。それが、私たちなめくじなのよ。平和な世界に生きる自由を夢見て、カラを脱ぎ捨てたカタツムリの子孫が、つまり、私たちなめくじなのよ。
  私たちが、動作が遅いうえに無防備なのは、祖先が、自分ひとりの身の安全より、純粋に平和だけを願い、逃げたり隠れたりする必要も、他の動物を攻撃する必要も、いっさい望まなかったからなのよ。」
「なるほど」
と、ナムは思いました。
「それで、夢はかなったの?」
  ナムは、たずねました。そこが、一番、大切な点です。
  お母さんが続けます。
「カラを脱ぎ捨てたなめくじは、お日さまの光に、弱くなってしまったの。日差しを浴びると、体が乾いてしまうのね。もともと海に生まれた動物だから、水分が少ないと生きられないの。そこで、なめくじは、昼と夜を入れ替えて、お日さまの照る間は眠り、お日さまが沈んだ後や、雨の日に活動するように生活を変えたのよ。
 すると、夜や雨の日は、まさに、なめくじが夢見ていた平和な世界だったの。他の多くの動物は、夜や雨の日が嫌いだから、行動を休んで、争いはほとんど起こらないの。今日の昼間が、そして今もそうね。」
 ナムは、シンと静まり返った月明かりの庭で、昼間の雨の情景を思い浮かべて、その通りだと感じました。
  お母さんが、話を続けます。
「こうして、なめくじの祖先は、海の底にいた時から、何千年、いいえ何万年もかかって、自分たちのあこがれに向かって冒険を重ね、進化し、今の私たちに至ったの。
 そして、いま、夜に生きる私たちは、だれもがあなたのように、空にあこがれるようになったわ。お父さんやお母さんより、あなたはもっと強くお空にあこがれることでしょう。あなたから生まれる子どもは、もっともっと強くあこがれることになるでしょうね。
  それをくり返して、なめくじは、いつかきっと、お空に浮かぶ夢をかなえるにちがいないわ。これから何千年、いいえ何万年かかるかもしれないけれど、きっときっと、かなえるにちがいないわ。」
 お母さんは、ナムの横で、お月さまを見つめながら、そう言いました。
(そういえば、・・・・・)
  ナムは、昼間見た雨雲の色が、自分たちなめくじの肌の単調な色合いによく似ていたのを、思い出しました。自分たちはぬれた土色の、雨雲はぬれた灰色のモノトーンです。
「ぼくたちは、いつかきっと雲になる。」
  ナムは、黄色いガーベラの花床の上で、そう確信しました。

 

(2012年10月25日)


 Copyright: Isshoh Tsukino
 (禁 無断転載)





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